東洋医学の「血」って何だろう

「血」は、もともと東洋医学の言葉です。すくなくとも2000年以上前から使われてきました。つまり、東洋医学独自の概念です。「血」は、単に液体状の赤い物質を指すのではありません。現代使われる血 (ブラッド ) という言葉と、共通点はありつつも、東洋医学独自の概念がつまった言葉です。

「血」=ブラッドではありません。
「血」=ブラッド+α です。

この言葉を、日本西洋医学も用います。だから、ややこしくなっています。
ブラッドの説明は必要ないと思いますので、+αについて、説明します。
+αは、モノではなく、機能の部分です。ここが東洋医学らしさですね。

燃料としての働き

血には「体力をストックしておく働き」があります。だから血は体力である、とも言えます。たとえば、体を使いすぎたり、頭を使いすぎたりすると、「血が虚す」という表現を使います。血が減る・弱る、と解せばいいでしょう。たとえば、パソコンばっかりやって目を使いすぎると、血が減ります。夜更かししても血が減ります。

血が減るなんて、そんな馬鹿な!…血=ブラッド と誤解している人は、そういうかもしれませんね。
血が減る、という表現は、体力をストックしておく機能が減退する、と理解します。

白内障の手術をして、しばらくすると体調が悪くなってきた。
補聴器をつけて、いつの間にか疲れやすくなった。
こういう因果関係はありえます。目も耳もたくさんの情報を取り入れる器官で、取り入れられた情報によって、脳は多くの血を使います。体力が奪われるんです。「耳が遠くなると長生きする」と言われるのは、こういう意味で当たっているのです。

血は燃料みたいなものです。燃料は物質ですね。
気 (機能) は温かさで、これは燃料が無いとスタートできません。

血を消耗しても、すぐには症状に現れません。後でボディーブローのようにこたえてきます。たとえば、石油ストーブで考えましょう。石油が減ったからといっても、火はつきますね。でもすごく寒い日が来たとき、ながくつけることができません。

物質 (燃料) :機能 (温かさ)

東洋医学は、気 (機能) を中心とした医学ですが、「血」という物質的な考え方を、「気」という機能的な考え方にぶつけてきます。「機能に対する物質」と言う相対的視点 (陰陽) を忘れません。

右があったら、必ず左があるはずだ。上かあったら、下があるはず。前があったら、後ろがある。
そういう視野を常に保ち、一方に偏らないスタンスを求めてくる学問です。

燃料があるから温かさが生まれる。石油が無いと火はつきません。
温かさのために燃料が必要となる。火がつかなければ石油など無用のものです。
石油と温かさは一体のものですね。どちらが欠けても「用」をなさない

「用」とは機能です。働きです。力です。気です。用をなすことが目的なのですから、結局は気が大切。
…でも気だけでは用をなさない。そのためにあるのが物質 (血) です。

血があるから気が生まれる。
気があるから血は養われる。

「気は血の帥 (すい) 」「血は気の母」と言われるゆえんです。帥とは血を統率するもののことです。

五体満足であることは大切です。しかし、そこに命が無いと意味がない。でも、身体があるからこそ命が宿る。体も命も大切ですが、存在意義は命です。体ではありません。

気と血は一体で初めて用をなす。
気と血はどちらも同じく大切。
しかし、主従関係でいえば、あくまでも気が主で、血は従です。だから「気の医学」なんですね。

冷ます働き

血には、燃料としての役割以外に「冷ます働き」があります。
たとえば「烈火」のように怒り狂っている人があるとする。もし血が足りないと怒りを抑えることが出来ない。血という体力がある人は、気持ちを切り替えることができる。冷静になれるのです。

何かに「熱中」しすぎたときも、「今日はここまで、続きはまた明日…」と、体力を温存しながら根気よく続けることができます。血が足りないと、それができません。一気にやってしまい、後で体調を悪くします。

「烈火」「熱中」…すべて火です。強すぎるは火は、冷まさなければいけません。
火を冷ます。…といえば、それは水ですね。
水を使えば火力を調節できます。

血と気のシーソー関係

血は水からできている。だから火を調節できる。
この単純な発想が、臨床に合う。この理論に基づき治療すると、治るんです。
だから3000年もの間、「血」という言葉が生きつづけているわけです。

血が弱い状態を、血が虚ろ (うつろ) と書いて「血虚」といいます。

ちなみに、血は足りているが血が停滞した状態を「瘀血」といいます。血はサラサラ流れている時は、大切な体力 (生命力) ですが、停滞すると、それはかえって体力の邪魔をします。これが瘀血 (おけつ) です。

血虚になると、火の制御ができず、怒りっぽくなったり、眠れなくなったり、ブレーキがかけられなくなったり…ということがおこってきます。火というのは気のことです。気は働き。行動。アクション。

水は血です。血は生命の泉。嵐の前の静けさ…動を生むための静。サイレント。

つまり、気と血とはシーソー関係にあることが分かります。
火が強くなりすぎると、水は乾き干上がってしまう。水が足りなくなっても、火を食い止めるものが無くなってしまう。
気が暴走すると、血は足りなくなる。逆に血が足りなくなれば、気が暴走してしまう。

血と気は助け合う

血はどのようにして作られるのでしょう。血を作るのは気です。

気によって血は作られる。
これは当たり前です。血は食べ物を消化吸収することで作られます。消化吸収機能は「働き」ですね。…つまり気です。この働き (気) によって血は作られています。

血によって気は作られる。
これも当たり前です。血がなければ動けません。動くこと=機能でしたね。だから血は気の元です。

つまり、気と血はニワトリと卵のような関係でもあるのです。これは先にお話しした「石油とストーブの関係」でも同じことです。石油があるから温かくなる。温かくしたいから石油がここにある。母子関係つまり相互依存の関係ですね。

気と血の関係。
それはシーソー関係。はたまた母子関係。
はてな。ややこしくないですか?
ここに我々が勉強したことがない理論が隠されています。
陰陽論です。

≫「東洋医学の陰陽って何だろう」をご参考に。

なぜ+α があるか

冒頭で、「血」=ブラッド+α と言いました。
血は物質で、気は機能です。血に気が宿っている。物質に機能は宿っているのです。この物質は、機能の「ために」存在します。「〇〇のために」という時点で、目的があり機能があり意味があります。

もう少し別の角度から考えます。例えば石ころと、人間を比べてみましょう。石には命は宿っていませんが、人体には命が宿っています。石ころも人体も、同じ物質ですが、命という機能が宿っているかどうかは、大きな違いです。つまり、人体という物質には機能が宿ります。これは物質そのものがすでに機能的側面を併せ持つ、ということです。これが、+α の部分です。

石ころという物質には、この+α がありません。同じく、死体にも+α がありません。死体に血が残っていたとしても、その血にはもう+αがないのです。つまり、死体に残った血、あるいは出血して体外に飛び出した血は、もう「血」ではないのです。生きた命であるかないか、その違いに東洋医学は視線を注ぎ続けるのです。

コメント

テキストのコピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました