東洋医学の「脾臓」って何だろう

東洋医学の脾臓は、西洋医学で言う脾臓とは全く違うものです。もともと東洋医学の言葉である「脾臓」を、杉田玄白が誤用したためで、その誤用を日本西洋医学はそのまま用いています。まずは、誤解のないように断っておきます。

≫「五臓六腑って何だろう」をご参考に。

それからもう一つ大切な前提があります。東洋医学の言葉は、すべて機能に名づけられたもので、物質に名づけられたものではないということです。これから脾臓について説明しますが、脾臓を物質として考えて読むと分かりづらくなります。あくまでも機能 (=気) についた名称と考えて読み進めてください。

≫「東洋医学の気って何だろう」をご参考に

脾臓と「脾臓」はちがう?

脾臓を一言でいえば…
脾臓は、体のもつ生理機能の一部です。
つまり、脾臓も機能です。気です。
くわしく言うと、摂食機能・消化吸収機能・栄養機能の総称です。
また、体を動かす機能も脾臓と呼びます。脾臓は運化であり四肢を支配する…ということです。

体には水分と栄養分の混じったものが絶えず循環しています。
口から入った栄養分は、消化管に入り、血管中に入り、各細胞に入って、活動力に変わり、消えて無くなる。一部は大小便というゴミとして捨てられる。このルートをサラサラ流す働きを脾臓と呼ぶ。簡単にいえば、こうなるでしょう。西洋医学の消化器と重複しますが、それよりもかなり概念が広いです。

栄養を取り込み活動に変える力です。

脾臓は元気のもと

脾臓は活動力の元と言っていいと思います。何となく元気がないとか、虚弱体質というのは、脾臓を治療します。それで、おなかがよくすき、ご飯がおいしくなれば、体が強くなります。いかに複雑な症状があろうと、多くの不定愁訴があろうと、原因が脾臓であれば、これを治療すれば自然とあちこちがよくなってきます。元気のもとなんですね。

では、脾臓はどこにあるか。脾臓は機能なので、こう考えること自体がナンセンスではありますが、一応、この機能の中心は、人体の真中であるとされます。人体を、上中下に分けた時の、中です。この上中下、上を上焦・中を中焦・下を下焦と言います。

つまり、脾臓は中焦にある、ということです。中というのは、中心という言葉もあるように、とても大切であるという意味も持ちます。脾臓は大切なんです。どんなに大切か、見ていきましょう。

先天の元気・後天の元気

摂食機能・消化吸収機能・栄養機能・活動力といえば分かるように、脾臓は生命力に大きく関わる機能です。東洋医学では、生命力のことを「元気」と呼びます。元気には2種類あります

1つ目は、腎臓が作る元気で、先天の元気と言います。
2つ目は、脾臓が作る元気で、後天の元気と言います。

われわれは、お父さんお母さんのもつ、神秘的な力によって誕生しました。生命の誕生は、現代科学でもまだ謎のままです。これは、生まれた時から持っている元気なので、「先天の元気」といいます。父母から受け継いだ先天の元気が、何処かに行ってしまわないように、封じ込めておく働きのことを「腎臓」といいます。

≫「東洋医学の腎臓って何だろう」をご参考に。

その生命を存続させるのが脾臓で、飲食物を取り込む力です。食べることで命をつなぐのです。飲食物を取り込む力は、生まれた後に得られる元気なので、「後天の元気」といいます。よく西洋医学でも、「先天的だ」とか「後天的だ」とか言いますが、これも東洋医学の言葉だったんですね。

それは、さておき…
先天の元気があるから、後天の元気が得られます。
後天の元気がなければ、先天の元気は消滅してしまいます。
これも、陰陽ですね。相互に依存し合っています。脾臓と腎臓は、車の両輪みたいなものです。どちらが欠けても車は動きません。脾臓はそれほど大切な役割を担っているのです。

脾臓の弱りは病気のもと

人間は何も口に入れなければ、3日で死ぬと言われます。それほど重要な役割があるため、脾臓が病むとさまざまな病気をおこします。つまり脾臓を治療すると治る病気はたくさんあるのです。「先生、別に消化器は悪くないよ」という患者さんでも、脾臓を治療すれば、治るものがたくさんあります

そういう患者さんには、食べ過ぎ間食に注意するなどの養生を指導します。また、適度な運動も指導します。食べ過ぎ・間食に注意する。運動する。すると、お腹がすく。これは、脾臓が良くなるからです。

脾臓が十全に働いているかどうか。バロメーターになるのは、白いお米がおいしいかどうかです。ご飯が甘く感じられていれば、お腹がすいたらまずお米が食べたいと感じられれば、まず、問題ありません。おかずはおいしいが、ご飯は食べたくない…というのは、すでに機能が低下している証拠です。

人間はいつか死にます。その過程で、何がおこるかというと、栄養が不足してきます。その結果、活動力が不足してきます。呼吸する力、心臓を動かす力。すべて脾臓が、食物を活動力に変えてくれるから、生命力が得られるのです。その力が減るから、老化してゆく…。弱って死にゆく病気は、すべて脾臓の弱りが深くからんでいます。

たとえ食欲があっても、排便が正常でも、筋肉モリモリでも、生きていく限り、脾臓は水面下で、徐々に弱りつつあるのです。人間は死にゆくように出来ているからです。食べ過ぎや運動不足は脾臓を、早く弱らせる原因になります。だから我々は、脾臓を常に調整し続けなければなりません。この調整が、腹八分に医者いらず…です。

脾臓はいのちの決め手

おもしろいたとえがあります。江戸時代の有名な医学者、杉山和一の言葉です。

ここに、生け花があるとします。この花には根がありません。もう枯れるのを待つばかり。でも、生き生きとして、きれいです。この状態は、生きているのか?死んでいるのか? この医学者は、これを「生きている」とします。

枯れるのを待つばかりではありますが、たとえ根がある植物でも、いずれは枯れてしまいます。そうすると生き生きしていることこそが、命の証 (あかし) と言えます。しかし、命の根源…根…がありません。

種が2つに割れて、はじめて出てくるのが「根」です。これは先天の元気と重なります。
その根が土の養分を吸い、葉を出します。この養分と、それを葉に変える力、これは後天の元気と重なります。

この生け花は、先天の元気である根を断たれても、茎や葉や花にとどめられた栄養分が残っています。
そして、その栄養分を、みずみずしさを、生き生きと表現する力 (生命) が残っています。後天の元気が残っています。

だから生きている。わずか数日の命であってもです。最期の最期、決め手になるのは、後天の元気があるかないかです。脾臓という機能があるかないかです。

脳死を死とする現代西洋医学とは、大きく異なる見解です。

≫脳死問題、もう一度考えよう

脾臓と「湿痰」

そもそも、体には水分と栄養分の混じったものが絶えず循環しています。その栄養分は、口から入り、消化管に入り、血管中に入り、各細胞に入り、活動力に変わって消えてなくなります。このルートをサラサラ流す働きを脾臓と呼ぶ。これは前述のとおりです。

サラサラ流れていれば、この栄養分は生命力そのものです。しかし、食べ過ぎによって、あるいは脾臓の弱りによって、サラサラ流す働きに負荷がかかると、この栄養分は、ドロドロになり、濁ります。これを「湿痰」と言います。

湿痰が生じると、痰がよく出たり、便器に大便がついて取れにくくなったり、小便が泡立ったり、口が粘ったり、汗がベタベタしたり、そういう特徴が見られます。

たとえば、ある人が腰痛で、この腰痛の原因を診断する時、痰・大小便・口粘・汗について問診し、上記のような湿痰の特徴がそろっているとします。これで、湿痰が原因ではないかと仮定できます。
そこで、湿痰を取るように治療すると、腰痛が取れる…という感じです。

湿痰を直接取ることもあるし、脾臓を強めて、結果的に湿痰が無くなるようにすることもあります。
腰痛に限らず、湿痰は循環を妨げ、元気 (生命力) を弱らせます。ガン・脳卒中・糖尿病も、この湿痰が関係しています。

このような体内で作られる副産物は他にもあり、湿痰以外に、気滞・瘀血・邪熱と、全4種類です。
これら湿痰・気滞・瘀血・邪熱を、ひっくるめて「邪気」と言います。

「正邪」という言葉をご存知ですね。正しいもの ⇔ 邪 (よこしま) なもの。
これも陰陽関係です。正しいものとは「元気」のことです。ですから、邪気に対して、元気を「正気」と呼ぶこともあります。

脾臓の弱り…脾虚

疲れやすい。それでも無理して動いている。慢性的にしんどい。

こういう虚弱体質は、脾臓の弱り…脾虚である場合が多いです。脾臓は元気のもとだと言いましたが、「気が補えていない」「気がもれている」という現象が起こっています。

そもそも脾臓が弱ると、元気の補給ができません。いくら食べたとしても、食べ過ぎればその分、脾臓が弱るので、ますます元気が足りなくなります。

そのうえ、われわれは働かなくてはなりません。ただでさえ足りない元気を、使い切ってしまいます。おまけに、過度の労働は脾臓をますます弱らせます。

脾臓が弱ると、栄養分が大便として外に出て行ってしまうこともあります。下痢です。後天の元気が外に漏れてしまい、ますます疲れやすくなります。

脾臓が強くなれば、元気の補給ができます。元気のレベルが上がると、今まで無理になっていた仕事量が、自分に合った適度な仕事量に変わっていき、働くことでかえって脾臓が丈夫になります。いい循環が生まれるのです。

脾臓は血を抱く

鼻血・吐血・血便・血尿・内出血などの出血も、脾臓の弱りが原因であることがあります。気が漏れると、血が漏れるのです。「東洋医学の血って何だろう」で説明したように、気と血は、鶏と卵の関係で密接です。

脾臓の弱りを治療すると出血が止まる…脾虚による出血です。

脾臓の一側面として栄養機能がありますが、栄養をまくばるだけてなく、栄養分 (血) が外に漏れ出さないように抱きかかえる機能も脾臓です。こういう機能を最も簡単に説明するのが「土」です。脾臓は土に例えられるのです。

脾臓は土

土は、雨をスポンジのように受け入れ、落ち葉などからの栄養分を分解して保持しています。脾臓の摂食機能・消化吸収機能とそっくりです。

土は、雨がしばらく降らなくても、水を絶やすことがありません。これは雑草が日照りにあっても枯れないことから想像できます。地面近くまで網の目のように染みわたるのでしょう。まくばる力を持っているのです。これは脾臓の各所に栄養をまくばる力…栄養機能にそっくりです。

しかも、多くの地下水を蓄えています。抱きかかえる力です。体力を保持しているのです。後天の元気にそっくりです。

人体は自然です。人工物ではありません。だから、自然現象と相似する現象が起こるのです。その現象は非常に機能的なもので、目に見えないものです。科学では証明しづらいものだと思います。

土のもつ水をまくばる力は、毛細管現象で説明できるでしょうか。背の高い樹木 …100メートルを超すと言われるメタセコイヤなどは、なぜ頂点まで水が届くのか説明できないと言われます。

脾臓はなぜ卑しい?

こんなに重要な脾臓なのになぜ、「ニクヅキに卑しい」って書くのでしょうか?
杉田玄白もそう思った一人です。

いや、そこにとどまらなかった。

脾臓なんで卑しいと書くんだから重要じゃない、…玄白がそう思い込んでいたと思われるエピソードがあります。西洋医学には、膵臓という臓器がありますね。膵臓は東洋医学にはなく、西洋医学オリジナルのネーミングです。実は、杉田玄白の造語と言われています。膵臓に東洋医学の脾臓が該当する、と考えた玄白は、このような重要な臓器に、「卑しい」と書く脾臓なんていう名はつけられない、と考え、「膵臓」と名付けたと言うのです。

これが本当の話だとすれば、彼は東洋医学のことを理解できていなかったと断言できます。解剖学的な人体のパーツに、東洋医学の五臓六腑の名称を付したこと自体、論外なんですが、それだけでなく、脾臓というネーミングの意味が分かっていなかったことになるからです。

実は、このネーミングに東洋医学の精神が込められています。

尊を支えるものこそ「卑」

東洋医学の精神、それは陰陽論です。

「卑」の反対は、「尊」です。
もちろん「尊」が大切であることが前提ですが、尊だけでは尊は存在できません。
陰があるから陽がある。
右があるから左がある。
西があるから東がある。
低があるから高がある。
そう考えると、卑があるから尊がある。そう言えませんか?

もし、陰がなければ、陽は存在し得ません。同じように、卑がなけれは、尊は存在し得ないのです。
「尊」とは、人体の場合、何に該当するでしょう。「命」です。命が尊い。「脾」がなければ、「命」は存在できないのです。

尊に対する卑、それは、天に対する地。天は尊い。しかし、地があるからこそ、天は存在できるのです。
女性みたいなもんですね。世の中を見てください。おしなべて、男の方が有能。腕力が強い。頭も切れる。しかし、その力はすべて、女性が生んだものです。女性が存在するからこそ、男性の力が存在し得る。女性は、まさに大地です。男性よりも重要なのです。

難しい言い方をすると、「用」から見れば、男が主で、女は従です。「体」から見れば、女が主で、男は従です。用と体は、気と血の関係。陽と陰の関係。優劣を超越した協調の関係です。

脾臓という「肉体をつくる力」があるからこそ、命は存在できる。「脾臓」というネーミングには、そういう哲学が隠されています。

「脾」とは大地です。大地の母です。

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