脳死問題、もう一度考えよう

臓器提供の条件緩和などを盛り込んだ臓器移植法の改正案について、今国会 (※当時) で成立をはかる動きが強まっている。脳死移植に関する論議が再燃しそうな気配だ。

解剖学者の養老孟司氏は、脳死が人の死かを論ずる前に、そもそも我々の体は「自然」の一部であるということを理解すべきだ、と強調している。確かに、我々の体は文明が誕生するずっと以前から、自然と共に存在しているものである。

その自然が今、かつてない危機に瀕している。環境問題である。そもそも環境問題とは、自然を人間が利用するなかで起こる問題だが、我々が利便性を追求するうえで、一線をどこに引くかということが鍵になる。地球温暖化はその一線を超えてしまった例である。

同じように、人体のパーツを材料とする臓器移植は、人体という「自然」を利便化する行為であるということが言える。

文明が花開いた当初、今日の環境問題は予測し得なかっただろう。人々はひたすら森林を伐採し、化石燃料を燃やし続けた。それはいつしかある一線を越え、気がつけば「環境破壊」にまで発展してしまっていたのである。ここから我々は多くのことを学んだはずだ。

人体という「自然」をどう扱うか。これは環境問題ととてもよく似ている。脳死移植をはじめiPS細胞による臓器移植の開発などの医療の問題が、「環境破壊」に相当するのか。それとも一線を超えていないのか。吟味することは必要である。

宗教法人「大本」は、「ノンドナーカード (臓器提供拒否の意思表示) 」を街頭配布するなど、宗教界において最も明確に脳死移植に反対する立場をとる。脳死移植や遺伝子組換え食品の普及は、環境破壊に他ならないと明言している。その背景には、利欲の行き過ぎを戒めると同時に、自然への畏敬の念を忘れてはならないという信仰がある。

こうした見解は、脳死移植を推進する気運が急激に高まる今こそ注目すべきではないだろうか。自然環境は、本質的に制御が難しく、一度機嫌を損ねると手厳しいしっぺ返しを食う。それと同じことが言える人体を、我々の都合によって利用するのだから、慎重な議論が必要なことは言うまでもない。

東洋医学にはこんな哲学がある。この宇宙は「陰陽」から成り立つ、というのである。陰とは静・体、陽とは動・用のことで、つまり陰陽は生命ともいえる概念である。生命は宇宙に遍満し、限局された部分的なものとは考えていないのだ。また東洋医学の「五臓六腑」という概念は、人体の腹腔内に存在する単なるパーツではない。肝臓には魂・肺臓には魄・心臓には神・脾臓には意・腎臓には志がそなわるとする。各臓器はみな生命を持っているのだ。悠久の時を刻んできたこの医学の考え方である。

コンピューターに向き合うのみで、患者の顔を見ようとしない昨今の医療現場…。西洋医学は明らかに物質的肉体としての視点に偏している。生命とは何なのか、生きるとはどういうことなのかという哲学を、その医学自身が踏むことなしに、温かく柔らかい「生」を営むものを、物質的パーツであると断じるのは、あまりにも早急ではないだろうか。

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