新しい予防医学、漢方の歴史に学べ

  「黄帝内経」という中国漢代の書物に、「未病を治す」という言葉が見られる。未(いま)だ病気ではないものを治療する、つまり予防医学のことである。病気になる前に、早期に原因を解決することの重要性は、時代と場所を問わない。
 
  予防医学での最も大きな成功は、いわゆる伝染病をはじめとする感染症の減少だろう。天然痘は世界から消えた。危険性の高いこれらの病の多くは、もはや我が国の医療での筆頭課題ではなくなった。これが予防の威力だ。ウイルスや細菌などの病原微生物という原因を発見し、除去を可能にしたのである。
 
  今日、問題にされることが多いのは、除去可能な外因によらない病気、つまり、生物学的に除去が難しいガン・成人病・遺伝子疾患・精神病などである。
 
  これらの中に生活習慣病と呼ばれるものがある。生活習慣という原因を「除去」することで予防できる病気のことだ。感染症をほぼ払拭した科学の芽は、残った病気に照準を合わせ、新たな予防医学の成功に向けられている。
 
  この予防医学を、実は漢方は2000年以上前から実践してきた。
 
  たとえば漢方では、「飲食不節」という生活習慣は「脾を傷 (やぶ) る」とする。「脾」は漢方の独自概念のひとつで、飲食や運動機能を健全に保つ能力を持ち、これが病むと「嗜臥」や「体重節痛」という症状があらわれる。横になるのを好む・体や関節の重さ痛みで運動能力が低下する、という状態になるのだ。つまり、脾の病の本質は、飲食の不節制と運動不足であることが分かる。これはメタボリック症候群の本質と同じである。古代の経験はすでにそれを捉えていたのだ。
 
  飲食・運動のほかにも漢方の養生法は豊富にある。これらノウハウの蓄積を研究して現代に生かすべきだ。
 
  病気の原因として生活習慣を取り上げるとき、ひとつ気をつけるべきことがある。病因を、病原微生物に求めるのと、生活習慣の乱れに求めるのとでは、大きな違いがあるということである。前者は純粋な外因なので、患者が治療を望みさえすれば、医者はこれを強制的に除くことができる。だが、生活習慣はそうはいかない。生活をする本人が自らの意思で、管理・制御する必要が出てて来る。医者はすべてをコントロールできず、主導権はむしろ患者自身の「気持ち」にある。
 
  漢方医学では、この問題に早くから直面していたと思われる。そのため「心身一如」という考え方を用いた。心と体を別次元のものとしない治療方法の追求である。漢方が生んだ「五臓六腑」という考え方は、身体の生理活動だけでなく、意識による精神活動もその概念の中に含む。心と体どちらを抜きにしても語ることのできない生活習慣というものを、「治療」の対象にしようとした古人の強い意図が感じられる。
 
  こうした発想を現代風にいえば「脳科学」があてはまるだろう。心は農が生み出すものであり、体は間違いなくその脳とつながっている。古代にあっても、思考は同じものを捉えていたのかもしれない。
 
  新薬や手術などの劇的手段を持たない古代人は、限られた中で様々な工夫をこらし治療にあたった。そうした過酷な環境のなかでこそ生み得た、言えるこれらの考え方は、時を超えてなお新鮮である。
 
  「未病」とは、生活習慣の乱れそのものを言ったのだろう。生活習慣は、洋の東西の考え方を一元化し、医学に新しい流れをもたらす可能性を秘めた概念なのだ。現在主流となっている医学の進歩は、脳死移植・遺伝子操作などの難題を、その先端において生み出した。私は、それらを可能にする高度な技術を有しつつも、その「武器」を必要としない世の中を夢見るのである。

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