病気にならない治療にこそ価値観を

昨今、メタボリック症候群という言葉が急速に広まるなど、生活習慣の見直しが重視されるようになりつつある。生活習慣が、病気の温床となる悪い体質と関係が深いからだ。しかし、医療の現場が、生活習慣改善に力を注げるシステムになっているかどうかは疑問である。

たとえば、頭痛で患者さんが来院したとする。聞けば、昨日深酒をやったという。薬を処方し、酒を慎むように指導し、診察を終える。数日の後、再び同じようにやってくる。また二日酔いである。前の薬がよく聞いたから同じものがほしいという。生活習慣病の最大の問題点がここにある。

こうしたサイクルがくり返される限り、症状は抑えることはできても、病気を減らすことはできない。それどころか、ますます負のエネルギーを蓄積してしまう図が、脳裏に浮かんでしまうのである。飲酒という悪習慣は、頭痛にとどまらずさまざまな難治性の病気の温床になりうる。

その原因を助長するような薬の使い方ならば、薬そのものまでが病因の一部となりかねない。対症療法にのみ偏ると病根はかえって深くなる、これは深酒と薬に限らず、あらゆる悪習慣と治療行為に言えることである。現代病と生活習慣のかかわりを大きいとするならば、この見えざる問題の裾野は広い。
病気は「ブレーキ」である、という考え方ができる。現代社会は、人間の欲望を刺激することで新たな市場を生み出し優劣を競い合ってきた。そんな激しく不安定な競争社会の中で、仕事のし過ぎや食べ過ぎ・睡眠不足など、われわれの生活習慣は乱れがちである。それらを自然な速度に戻すという見方だ。ならば痛みやつらさといった諸症状は「信号」とでもたとえられようか。

だとすると上に例を引いた頭痛にしても、日常生活を見直し、健康状態にフィードバックさせるために、見逃してはならない重要な信号ということになる。我々は、この信号をその場しのぎに安易に消そうと努めるよりも、むしろその意味するところを深く洞察することのほうを重要視すべきではないだろうか。

しかし現実は、患者は「痛み」を速く取ってくれる医者のもとに走るのが常である。医者は、よく効く「薬」を出せばまた「深酒」をやるリスクを感じつつも、それを最優先せざるを得ない。ここに病気を治すということの難しさが見て取れる。そして、このことは懸案の医療費縮小の難しさとも直結する。

医療機関は、軽症ならばそのレベルのうちに生活習慣が見直せるよう、時には「薬」を出さない勇気も必要だ。現症状の原因が主にどの習慣なのかを見極め、その習慣がどうなるかを見据えながら、さじ加減を決める。症状という信号を出さずに済むような生活習慣への改善、それを進められるような「薬」の使い方、である。

一方、治療を受ける側である国民全体としては、生活習慣を見直すことよりも、「薬」の頓服効果にのみ頼りすぎる風潮が依然としてわれわれの社会にあり、その渦の中に現代医療も存在するという現状に目を向けるべきであろう。日進月歩の世の中、自らの却下を顧みよとは誠に地味な話ではある。だが健康とはもともとその上に成り立つものではないだろうか。

こうして見方を変えると必要なものが見えてくる。「もう深酒はしたくないと自然に思えてくるような治療」である。医療関係者と患者、それを取り巻く社会全体が、目先の利を度外視し、まずは自分自身の生活習慣を正すための方法について、新薬や手術法の開発と同じくらいの興味と努力を払うならば、その有効な手段が次々に見つかるはずだ。医療に必要な財源も人材も足りないという矛盾をとく糸口を、我々は速く探し出さなければならない。

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