西洋医学と東洋医学の融合

西洋医学的な知識は、常識として非常に大切です。

以下のような事実があります。

  • 甘草…長期投与で血中カリウム濃度が下がり、むくみ・高血圧などを起こすことがある。それでも服用を続けると不整脈で死亡することもある。例えば芍薬甘草湯はこむら返りに汎用され、甘草の用量が多く長期投与は注意が必要である。
  • 黄芩…間質性肺炎を起こすリスクがある。肝炎治療に用いられるインターフェロンと小柴胡湯 (黄芩が含まれる) を同時に使用すると、リスクがより高くなるので、現在は同時使用が禁止されている。

東洋医学をやる人は、こうした常識を忘れてはなりません。

西洋医学の見解に耳を傾ける。
他人の見解に耳を傾けるのは “謙虚さ” です。
謙虚さは、臨床家として最も大切な土台で、これから成長しつづけるために不可欠、リスク管理もおのずと機能します。

でも、だからと言って東西の医学をゴッチャにするのは良くありません。両者は「異なる性 (さが) 」をもつことを理解する。毒性は毒性で気を付け、弁証は弁証で努力すべきだと言うことです。両者は夫婦のように、互いに高め合い助け合う関係です。

こういう考え方があります。

正しく弁証しても、黄芩で間質性肺炎がおこる時はおこる。
正しく弁証しても、甘草で低カリウム血症がおこる時はおこる。

この考え方の是非を叩き台にし、何をすべきかを考えます。

「正しい弁証」は永遠の命題

弁証とは

まず、弁証とは何か。それから考えます。

東洋医学的な診断のことを「証」と言います。
証を決定することを「弁証」と言います。

ここに患者さんがおられたとして、詳しく問診を行い、じっくりと望診 (舌診など) を行い、丹念に切診 (触診) を行い、例えば「気滞証」と診断を下します。それに従って漢方薬なり鍼灸なりを行い、症状が改善するとします。これは、証が正しく立てられたということになります。

症状がいっこうに改善しなければ、証が正しくなかったのではないかと、証の見直しを行います。そのようにして正しい証を模索し導き出します。

これが東洋医学の診療のオーソドックスな光景です。

逆証とは

そんなオーソドックスな光景の中に、命の危機は当たり前のように忍び込みます。

ここに患者さんがおられたとして、やはり詳しく問診を行い、じっくりと望診 (舌診など) を行い、丹念に切診 (触診) を行います。ところがその時、知らぬ間に、余命宣告を受けるようなガンになっていたとします。それを東洋医学の先生が見抜けなかったとします。

これは証 (診断) が正しく立てられなかったということになります。

東洋医学には、「逆証」という考え方があります。

人無胃氣曰逆.逆者死.<素問・平人氣象論 18>

逆証とは ”死に病である” という ”東洋医学的な” 診断のことです。

弁証の難しさは無限

ただし、現在並み居る一流の先生方といえども、逆証を完璧に見抜くことなどできません。診断できる場合もあるが、できない場合もあります。要するに、完璧に「正しい証」を立てられる人など存在しない。

当たり前です。「人の生き死に (順逆) はこの手中にある」などと、神様でもないのに言えるはずがありません。

正しく弁証できないことなどいくらでもあるのですね。

「正しく弁証できる」と断言するならば、これは空想です。空想を前提にしてしまうとロジックになりません。

治せないのは「術」が未熟だから

明日、脳梗塞で亡くなることを、「正しく弁証」して見抜けますか? それ以前に、見抜こうとしていますか?

ちなみに僕は、子供でも大人でも、逆証でないかどうか、診察のたびに全力で見抜こうとしています。笑われるかもしれませんが、人間はいつ死ぬかわからない。もちろん、できていません。でもこれくらいでないと、逆証を見抜けるようになどならない。

正しい証が立てられる、と断言できる人がいるならば、それは東洋医学を “小さく” 見ている人だろうと思います。僕はもっと大きな可能性を見ています。

言不可治者.未得其術也.<霊枢・九鍼十二原 01>
治せないということは、まだ学術 (証を立てる力・治療技術) を会得していないからだ。

証という言葉がどこまでの大きい意味を持つか、という認識には、個人によってバラツキがあります。話が食い違う大きな原因になります。

東洋医学 “独自” の発展を妨げない

黄芩について

黄芩の投与で、間質性肺炎で亡くなる。

正しく証が立てられるならば、つまり、逆証の診断をも確実にできるならば、間質性肺炎という病名を知らなくても「このままにしておくと亡くなる」ということは診断できます。

もし逆証であるならば、僕なら苦寒の働きを反映させる鍼をしません。苦寒をやらない。黄芩も出さないということです。そんな思い切ったことをする人がいるなら教えて欲しい。僕は鍼灸師なので、漢方薬はやらないですが。

逆証をいつも正しく立てられるなら、黄芩で間質性肺炎になって亡くなる人はいないはずです。病因病理を解き明かし、原因となる黄芩を除けば、逆証ではなくなるのですから。

ただし逆証は、見抜ける人もいるし、見抜けない人もいる。もし見抜ける人であったとしても、見抜ける時もあるし、見抜けない時もある。

正しく弁証すること、特に逆証を見破ることは難しい。
だから西洋医学的な知識や検査が必要である。 

甘草について

甘草は薬性を調和すると言われますが、これは陰と陽との橋渡し的なもの、もっと言えば「陰陽の境界」に働きかける特殊な作用があるのではないかと個人的に考えています。

ただし、本当に境界に行くならば、陰陽を動かす力が非常に大きく、良くも悪くも影響力が強い、と言えます。

鍼で「境界」を動かす場合、細心の注意を払います。境界には浅いもの、深いものなど色々あり、どの境界に照準を当てるかを上手く選択すれば、効果も優れたものとなります。ただし、効く治療であればあるほど、一つ間違うとリスクも高くなります。

甘草が多くの方剤に使われているのは、さまざまな「境界」を選択し そこにバッチリ届くように、さまざまな方剤の組成が知らず知らずに工夫されてきた結果である…そういう仮説を立てています。

甘草は怖い、という西洋医学的な事実にもとづき、東洋医学的に仮説を立てるのです。

東洋医学は成長過程にある

仮説とは、もちろん妄想です。しかし学問の発展というのは、こんな妄想から始まります。
こういう妄想に水を差すような事はしてはならない。
東洋医学は、解明されていない事がたくさんあるのです。

正しく弁証しても、毒性による悪化が起きる時は起きる
ではなく、
正しく弁証できているとは限らないから、誤用による悪化と毒性による悪化の区別がつかない
が正しい。

このくらいの謙虚さは必要でしょう。だから西洋医学のチェックが必要なのですね。

漢方薬で悪化があった時、毒性による悪化だけをクローズアップしすぎると、悪化の原因は毒だと極論する結果となりかねません。証の診断の未熟さを正当化し、毒性を “隠れ蓑” として利用してしまう人が出てくる危険があります。黄芩や甘草は非常に重要な薬であるだけに…。

もしそんな考えが横行すれば、東洋医学の無限の可能性、学問の発展を止めてしまうことになりかねません。

二つとも大事な医学

正しい診断を得るために

正しい証がいつも立てられるわけではない。だから、西洋医学が必要なのですね。

例えばガンは逆証になりやすい。ガンであるかないかの正しい診断を得るためには、定期的な西洋医学の検査が必要です。

同様に、

黄芩を含む漢方薬を飲んでいる場合には、少なくとも半年に一回、肺のレントゲン検査が必要です。

西洋医学は実体を伴った大切な医学です。いまさら強調するまでもないことですが。

逆証が見抜けない “場合” がある。これが前提なんだから、間質性肺炎で死ぬかどうかも見抜けない。 見抜けないなら定期的な検査。当然のことです。

バランスを持って発言を

西洋医学サイドから見る人、東洋医学サイドから見る人、いろいろあります。

しかし僕が言いたいのは、西洋医学も東洋医学も、2つとも両方大切だということです。

自分の子供が2人いる。どちらも同じくらい大切だ。なぜこう思えるかというと、2人ともそれぞれに、ひとりの立派な人間として尊重しているからです。それぞれに別の人格を持つ。そしてそれぞれが真実である。こういうバランスが大切です。

自分の子供が、一人は勉強で行こうとしている。もう一人はスポーツで行こうとしている。二人とも同じ大切な子供です。でも、だからと言ってそれをゴッチャにして、”勉強が大切だ!” と二人ともに当てはめたら、うまくいかないですね。育て方が違う。伸ばし方が違う。

このバランスは、陰陽を勉強すると分かりやすい。

陰陽って何だろう をご参考に。

これからの時代は、このバランスを持ったうえで発言する必要があります。ほとんどの医師が漢方薬を使用したことがある、と聞き及びます。東洋医学は医療を語る上で欠かせないものとなっています。

まとめ

僕は逆証やガンを、東洋医学的に診断できるようになりたい。診断ができなければ治すことなどできないからです。だからその努力を続けます。できると信じて一生続けます。しかし、完璧に診断できるようになれるかというと、それは一生無理です。

一生下手だから。

だから西洋医学的な診断を仰ぎます。当たり前のことです。東洋医学的な診断 (証) は、そんな甘いもんじゃない。簡単には手中に入らないからこそ、簡単ではないことをやってのけるのです。

できてる、と思った時ができていない時である。
できてない、と思った時ができている時である。

自戒の言葉です。

これは医療に限ったことではなく、人生という大きな枠組みで言えることです。過信にこそ、われわれは最大限の畏れ (おそれ) を抱くべきだ。

謙虚さは医療の基本でしょう。これに東西の別などさらさらありません。

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