プロフィール
上 雅也(かみ・まさなり): 1500年前に中国大陸から命を賭して海を渡り、日本に中国伝統医学を伝えた呉人一族の末裔。
1969年 日本に東洋医学を伝えた「呉人」の集落、飛鳥の呉原に宗家嫡男として生れる。
1982年 父が癌で他界。鍼灸師が父の予後を予見、鍼灸研究を決意。
1985年 日本漢法研究会・大久保之皓先生の薫陶を受ける。
同年 鍼灸道具を入手し追試開始。
1990年 学生生活のかたわら鍼灸接骨院に入職。
同年 沢田流鍼灸術の研究開始。
同年 無農薬有機栽培開始。
1991年 近畿鍼灸漢方研究会参加。
1992年 同志社大学卒業。
1993年 北辰会にて弁証論治・鍼灸穴性学・脈診の研究開始。
1995年 大阪鍼灸専門学校(現・森ノ宮医療学園専門学校)卒業。
同年 明宗堂鍼灸院開院。
1999年 北辰会講師に、との要請を受ける。
同年 北辰会退会。以後、脈診研究に没頭。
2007年 東洋医学の理念を朝日新聞紙上に紹介。
2011年 愛知医科大学に冷たい飲食に関する基礎研究を提言。研究開始の報告を受ける。
同年 日本東洋医学会・中和症例検討会にて漢方薬研究開始。
2012年 奈良県橿原市に眞鍼堂開院。
眞鍼堂のルーツ
飛鳥時代、多くの渡来人が海を渡り、飛鳥に移り住みました。
日本書紀に以下のような記載があります。
【訓】470年、雄略天皇は、臣下らに命じて呉 (中国) の使いを迎えさせた。そして呉人を檜隈野 (ひのくまの) に安住させた。そのため『呉原』(くれはら)※1と名づけた。
【解説】470年といえば、聖徳太子の時代よりも100年以上も前です。この時代、すでに大和王権は呉 (中国) に使いを送り、最先端の科学・技術・文化を吸収しようとしていました。渡来した呉人たちは飛鳥の都の南西部、呉原に邸宅を与えられました。
〇
そんな中、562年※2、呉人の『智聡』 (ちそう) ※3が来日します。
彼は、鍼灸・漢方薬の書や仏典を飛鳥に持ち込み、日本に初めて医学を伝えました。智聡の子、善那 (ぜんな) ※4は、医師として大化の改新前後の時代に朝廷に仕えています。
智聡をはじめとした呉人の集落である『呉原』に、私はその血統を引く『上』家の宗家嫡男として生まれました。
〇
そして近代、飛鳥保存の中心となった、鍼灸師・御井敬三先生の存在。私が中学生の頃からのあこがれの人です。御井先生は患者の一人であった松下幸之助・松下電器会長に仲介させ、佐藤栄作首相の心を動かしました。首相は自ら飛鳥を訪れ、「日本のふるさと」を守るための法律が成立します。
そして、佐藤栄作首相は多忙を押して、飛鳥を視察します。「御井さんの声に心を動かされた」と語り、こうして飛鳥保存の特別法は、成立へ向かって舵をきることになるのです。
御井先生の脈診の腕は高く、病気の原因を素早く見抜いたといいます。この一人の鍼灸師が、飛鳥の歴史を包み込む自然を、一身を投じて守りぬいたのです。
呉人の末裔として、日本医療発祥の地である飛鳥に生まれ、御井先生をお慕いしていること。それが飛鳥古京のひざ元で鍼灸院を開くルーツです。
〇
※1呉原には呉人たちの一大集落がありました。
※2日本書紀に以下の記載があります。
【訓】 欽明二十三年 (562年) 、天皇は大将軍・大伴狭手彦を遣わす。狭手彦は高麗を打ち破り、珍宝をことごとく得て還って来た。
【解説】欽明天皇 (聖徳太子の祖父) は大伴狭手彦に命じて高麗を攻めた。下に説明する新撰姓氏録に、狭手彦は帰国の際、智聡を連れて帰ったとあるので、智聡の来日は欽明二十三年 (562年)となる。
※3・4智聡については、新撰姓氏録 (815年) に記載がみられます。
【訓】和薬使主という姓は、 呉国主・照淵の孫、智聡から出たのである。欽明天皇の御世に、使いの大伴佐弖比古 (大伴狭手彦) に随い、内外典、薬書、明堂図など百六十四巻、仏像一躯、伎楽調度一具などを持ち、入朝する。息子の善那は、孝徳天皇の御世に、牛乳を献じたことによって、和薬使主の姓を賜わる。
【解説】和薬使主という姓の由来について述べられている。智聡は、呉の国主の孫にあたる。薬書は漢方薬の書のこと。明堂図とは鍼灸の書のこと。164巻の書物が持ち込まれているが、その中でも薬書 (漢方薬の本) ・明堂図 (鍼灸の本) を特記している。